第235項!!楽しく行う九行を個人的な修行としてではなく、他者と協力して大勢に奉仕する修行としていきます。2027.07.17更新

楽しく行う九行を個人的な修行としてではなく、他者と協力して大勢に奉仕する修行としていきます。2027.07.17更新途中

こんにちは。αと白眉の超簡単な世界ブログの渡辺天です。今回のテーマは苦行ではなく、九行についてです。僕は、苦行というのは、歩いたり坐禅を組んだり厳しい修行をすることだと知っています。何より、苦行という行いを行えば、神の道に近づけるという信仰があるからでしょう。確かに、苦行という個人的な徳を得るために行う特殊な儀式であると言えます。

僕は思うのですが、このような修行を一個人として僧侶を止めるまで続けていけば、それなりの精神性や肉体の変化に行き着くことは可能だと思います。一個人として修行をしている限り、その本人である自分自身にしか、その苦行の報酬は帰ってこないでしょう。

僕個人としては、この宗教上の苦行を、同じ読み仮名の九行に改めたいと考えています。苦しい修行ではなく、楽しく成長できる修行である九行です。まず、九行の内の三つの修行を紹介します。

第一に生きるです。長く生きようと思えば、それなりに鍛錬を積み、いつでも衣食住を得られる環境に居なければなりません。生きるとは、とても生命力がいることで、長く生きようと思えば思うほど、いろいろな試練に合ったり、食料を調達したりと獣ではなく人間としての人生について考えていく必要があります。

第二に歩くです。僕たち二足歩行の人間は、一日の生活の中で常に歩き回っていることだと思います。一日一万歩を歩くのが良い健康方法として多くの人が知っているように、歩くとは非常に大事な動詞です。よく歩くことで、体が鍛えられ、足腰が丈夫になります。足の皮も厚くなって、体型をキープできます。基本的に大手を振って歩くだけで筋肉は維持可能です。まずは、軽く筋肉トレーニングをすることをオススメします。

第三に食べるです。食べることはとても重要です。美味しく健康的な食事を毎日食べることが出来たら幸福度は大いに高まるでしょう。確かに、昨日や一昨日に食べた食事を忘れてしまうかもしれませんが、僕たちはより良い生活の中で大きな楽しみの一つとして食事が美味しいことが大事だと思います。

ここまでの修行、①生きる②歩く③食べる、ということに関して、決して辛い修行ではないことが分かります。楽しみながら自分を高めて健康的に行う、このような九行であれば、大勢の人がこの九行に興味を持ってくれるのではないでしょうか。

さて、九行のうち僕なりの個人的な三つの九行を紹介しました。人間の生存に関わる基本的なことですが、①生きる②歩く③食べる、ということについて、自分なりに意識して実施することで、多くの知見が得られることが分かります。

歩く一つとっても、より速いスピードで疲れにくい歩き方を研究するのは苦しい修行ではなく、楽しいのではないでしょうか。食べる場合も、食事を得られたことに感謝して手を合わせ、最後のひとくちを残して”ひとくち様でした”と手を合わせれば、大きな飢餓感がなくなっていくのを感じることが出来るでしょう。

結局、この3つの修行は自己完結しています。もちろん社会の中の生活の一部として間接的に他者の存在が必要となるのは分かります。なぜなら、自分以外の他社が居なければ①生きる②歩く③食べる、という行為は途端にとても難しいことになってしまうからです。

九行のうち残りの六つの修行は自分の好きな修行をカスタマイズすればいいと感じます。寝るでも歌うでも瞑想するでも何でも良いのです。自分が成長できるのであれば。その上で、他社への感謝を含む修行も一つの修行としての形であると言えます。むしろ、理想的な修行となることが分かります。

例えば、毎月の収入から一定の寄付をするという九行があってもいいし、ボランティア活動に参加するという九行が合ってもいいと思います。あるいは、持ち物が多くあるのであれば、無償で他者に譲渡するのを習慣にするのも、他者が関与する九行であると言えます。

僕は例えで、あと三つ個人的な九行を紹介するとしたら、④寝る⑤歌う⑥学習する、です。あるいは⑦や⑧や⑨があるのであれば、寄付するやボランティアをするというような、他者とのつながりがある九行としたいです。

宗教でもそうですが、個人的な利益のため、例えば宗教であれば永遠の命を求めて、僧侶であれば一心に個人的な修行に励むことも大事ですが、その修業以上に多くのヒトを助けるような修行こそ宗教でいうところの永遠の命に近づく話だと思います。永遠に歴史上で名前は残るとは考えにくいですが、これからの後世のお手本として修行を続けていけたら良いのではないかと思います。

話のまとめとしては苦行ではなく九行のような哲学があれば、僕たちの人生はより豊かに、より大きな幸せを得られるのかもしれません。そのためには、楽しく行う九行を個人的な修行に費やすのではなく、他の人達とコミュニケーションを取り奉仕するような、そんな修行を目指していくのも一つの方策だと言えます。

話はここまでとします。大勢の人たちが楽しく、お互いを高め会えるような修行の形を目指していけたら良いですね。以上です。ご成長ありがとうございました。渡辺天でした。また会おう、アルファ。

第235項!!僕にとって悟りとは苦行の積み重ねであると言えます!!苦行が九行になることで悟りは開かれる!!

こんにちは。Inishie R plusAブログの時空です。今回は「悟りとは苦行の積み重ねである」というテーマについて深堀りしていきたいと思います。

苦行。うーん。苦行と言うと苦しい修行を体にむち打ちながら行うイメージがあるかもしれません。実際、僕の言うところの苦行とは僕自身であれば勉強し続けることであるし、経験を積み重ねることです。

いわゆる宗教で言うところの苦行とは千日回峰行のような既にコレをするという形式のある苦行であると思います。僕は苦行とはそれぞれの人の数だけ種類があってもいいと思うし、人によって苦行の定義は異なると思います。

僕は苦行として行っている、否、普段は苦行と思うどころか楽しくて仕方ない勉強などの修行を苦行と称しています。苦行とは楽しく行って積み重ねることが出来る行いであるはずだし、僕にとっては、勉強も或いは頭を鍛えるのではない筋トレも一種の苦行と言えるのです。

僕はたまに電車に乗って数駅離れたところから自力で歩いて自宅まで帰ってくることがあります。僕は夜中に電車に乗って、何十キロも先の駅から夜通しかけて初めて歩く道をグーグルマップも使わずに帰ってきます。

幸い、歩いている途中で雨が降ってきたことも殆どないし、毎回明け方には自宅のアパートに何とか辿り着けることが出来ます。

僕にとっては夜通し集中して歩いているので、フローの状態を味わえるし、異世界を探索しているような経験であり、ほとんどの道は住宅街を歩くので、最悪、朝まで待って道を聞けば済むし、実際、道を聞いたこともないです。

これが山の頂上から夜通しで、ふもとまで歩いて帰るのであれば、それこそ苦行であるし、僕自身は住宅街を夜通し歩いて自宅まで帰るだけでも普段味わえない高揚感を感じることが出来るのです。

僕は何十キロも歩く中で何度も途中で諦めようと思うことがあるのですが、強い意志によって毎回諦めることもなく、最後には自宅まで到着することが出来ます。

夜通し歩いているときには、神秘的な力を感じて、不思議なことに、いつもは近くのコンビニまで歩いていくのも面倒なのに、何十キロ歩いても不思議と全然疲れません。

僕も夜通し歩くのは、計画を立てて、この日に行うと決めているわけではなく、ふと突然、今日だな、と思ったときに電車に乗って遠くの駅で降りて、夜通し歩き続けることをしているのです。

最近では、夜通し歩く苦行は全然行っていませんが、つい1年前までは普通に夜通し歩く苦行を行っていました。僕は前回の苦行で夜通し歩くのも今日で終わりだな、という鈍い痛みのような直感を感じたのを覚えています。

その後、1年ほど夜歩く苦行は行っておらず、最近でも今日だな、という勘のようなものは全然感じません。僕にとっては、良い修行なので、また歩く機会があれば良いのですが、今度また歩くという可能性は今のところ全然ないのが現状です。

良い子のみんなは真似しないようにお願いします。

さて、僕は苦行と言うと苦しい修行であると言えるので、苦行という言い方はあまり好きではありません。実際、苦行は九行と書いて9つの行いと書き改めたいと僕は思っています。

苦行と言っても僕は毎日の勉強でも夜歩く修行でも行っている時は集中状態のゾーンに入っており、それだからこそ価値があるのだと思います。

この二つの九行で、一方、つまり勉強は積み上げていける性質のものであり、もう一方、つまり夜歩く修行は積み上げていく性質のものでは無いことが分かります。

実際、僕の悟りの定義は、苦行を積み重ねるということであり、勉強と夜歩くことの、どちらが大切かといえば、積み上げていける前者の勉強のほうが重要と言えます。

苦行が九行であれば、苦行の種類は九つあることが分かります。僕は今のところ三〇代半ばで二つの苦行を編み出しました。残りの苦行は七つあるわけですが、人生を通して、残りの七つの苦行を知ることが僕の天命であると言えます。

僕は仏教やその他の宗教について、あまり詳しくありません。僕が不勉強であるということも理由の一つですが、宗教の初心者としての僕から見れば、宗教とは膨大な知識に裏付けられており、僕は宗教を学ぶという意味では人生を全てかけても時間が足りないのではないかと思うからです。

宗教を得る場合に非日常的な体験も効果的ですが、日常の一つ一つの習慣を丁寧にこなしていくという点も重要であると言えます。

夜歩くのは普段行うことのない非日常体験ですが、その非日常体験と同じくらい勉強のような日常体験も重要だと僕は考えるのです。

僕は「自分の」神様を信じているし、他の宗教家たちも「自分の」神様を信じているはずです。それは結局のところ同じ神様を愛していたとしても、それぞれの人の神様のイメージは全く同じではなく、それぞれ異なると考えるのが普通でしょう。

その上で僕は自分の可能性を信じているし、神様と考え方が同じだと、自分の望みは叶い続けると思っています。そのためには自分を磨き続ける必要があり、当記事のテーマである「悟りとは九行の積み重ねである」ということになるのです。

僕は勉強は僕がこの世界から消えてなくなるまで続けるでしょうが、夜歩く修行はもうすることはないかもしれません。それは夜歩く修行が価値を無くしたのではなく、修行として十分体得したので、これ以上はする必要はないということです。

みなさんも自分自身を鍛えるために、それぞれの方法があると思います。人の数だけ人生があり、人の数だけ可能性はあります。僕は苦行とは可能性であり、まだ見ぬ自分に会いに行くことだと思います。

それこそ遊んで暮らす人生よりランクの高い、九行により経験を積み重ねた人生であると言えます。僕の話は受け入れられる人もいるし、受け入れられない人もいるのが普通だと思います。その上で偶然にも当記事を読んでくれた読者さんがどのように考えるか、僕は興味があります。

そろそろ二〇〇〇文字も超えたのでここまでにします。また僕にも偶然としての機会があれば宗教的な物の見方に関して書き記せればいいです。僕の独善的な話をここまで聞いてくれた読者の皆さんに感謝します。その上で皆さんも宗教や神様に関して考えてみる機会があれば僕も幸いです。皆さんの幸せを願ってクローズとします。ではでは。

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